匍匐前進(ホフクゼンシン)とは伏せたままで敵陣に切り込む体勢をいう。自衛隊では第五匍匐前進までが規定されている。
第一匍匐とは、小銃を右手に持って右腰付近で保持し、左ひざを地面に付けて右足を後方に伸ばして、左腕で上体を支えながら前進する。
第二匍匐とは、第一匍匐の状態から左臀部を地面に付け、上体を支える左腕も肘が地面に付くくらいに下げて前進する。
第三匍匐とは、かなり体勢を低くした四つんばいであり、小銃は前進するに従って逐次前方に置く。
第四匍匐とは、伏せた状態から両肘を前に出し、右手で小銃の銃把を、左手で被筒を握り、肘を交互に支点にして前に出し、出した肘と反対側の足を前方に曲げ、その足及び膝で体を推進する。頭や踵(かかと)などが上がらないように注意する。
第五匍匐とは、伏せた状態から両腕を前に出すと同時に右(左)足を前方に出して曲げ、両肘を支点として、右(左)足を伸ばして前進する。その際には、左手で地面の草等を掴(つか)んで体をひきつける。なお、小銃は右手で前部負い紐部分を掴んで引きずって前方に置く。頭や踵(かかと)などが上がらないように注意する。
昔、徳兵衛も先輩から口を酸っぱく指導されたことがある。「頭を上げるな!上げた途端に敵から鉄砲の弾が飛んできて、頭を撃ち抜かれて脳みそが飛び散るぞ!!」と。それ以来、それがトラウマとなって今や平身低頭な毎日と相成り候。
(今日のおまけ)
徳兵衛、この年になるまで「気が置けぬ」、「気が置けない」といった意味を真逆で理解していた。身勝手に「心を許せない人」や「用心して付き合う相手」と思っていたが、オヒョイが亡くなって中村メイ子がコメントでこの言葉を使っていたのを聞いて、恥ずかしながら、早速、広辞苑などで調べてみた。
辞書によればこの言葉が誤解されがちなのは、二つの理由によるらしい。 1.「気を置く」という表現がほとんど使われなくなった。 2.「置けない」が可能動詞の打ち消し“~することができない”のように見える。 まず「気を置く」は、“相手を意識してしまう”、“無心になれない”、“気を遣う”、“遠慮する”といった意味。
次に、「置けない」は「置ける」の打ち消しですが、この「置ける」は自発動詞だそう。自発動詞とは、「腰が引ける」、「気が揉める」、「世話が焼ける」の類で、形は可能動詞と同義だが、“そうするつもりがなくてもおのずと (いやおうなしに) そうなってしまう”という意味らしい。
一緒にいるとどうしても“気が置かれてしまう”タイプの人がいる。その逆に、一緒にいても“気が置かれた状態になることがない”タイプの人を「気が置けない」と言うらしい。“気を置く【必要がない】”、“気を置か【なくてもいい】”ではないとのこと。
義務教育しか学問の無いこの徳兵衛、久し振りにお勉強させていただきました。ごっちゃんです。お腹(脳味噌)一杯の一日です。