物事に執着するな。執着すればするほど、料簡が狭くなり人心が離れて行くと、徳兵衛も、この方ずっといわれてきた。平たく云えば「コダワリ(拘り)を捨てよ」ということになる。拘りを持てば腹も立つし、喧嘩や口論にもなる。固執せず心穏やかにすれば気楽に生きられるとも教わった。
国と国、選挙、会社、組織、仲間、親子、夫婦、兄弟いずれもそうだが、各々の思想、考え方や価値観が異なる以上、そこには必ず「拘り」が生じ、紛争、競争やトラブルも頻発する。だからこそ大人の付き合い方が求められ自身も自制する。で、ハッピーエンドとなればよいのが、そうはいかないのが現実。国民、社員、集団や家庭が同じ方向に進むには、価値観、未来像や歴史的認識が同質化するように、仮想敵(国)、抵抗勢力、反対勢力を組織自らがこれを喧伝して組織内の結束を強める。場合によっては内部にも仮想敵を作る。そうすれば、選挙でいえば当選することができ、国や集団であれば内外に対して優越的な地位を誇示することができる。
例えば、ママ友の世界がこれに似ている。思想、考え方、拘りの強いメンバーや行事、お遊びに参加しないお行儀の悪いママには、ハブ友と称して少女像のよな子供をネタに徹底的に排斥(集団イジメによる仲間外れ)にかかり、仲間内の結束を強める。
仕事も地域やサークルイベントもそうだ。これらを円滑に進めるためには価値観の共有化が必要で、そこには個性も個の拘りは却って邪魔になる。メンバーは失職や仲間外れを虞れ媚を売り、いたって穏やかに過ごすそうと努力する。そのことで互いX、Y軸のポジションが安泰となり、あたかも組織の結束力が強く活動的であるように錯覚してしまう。
ただ、「コダワラナイ」、「シュウチャクシナイ」善良で、お人好しといわれてきた市民が限界点に達して、強烈な拘りを持ってヤケ(自棄)を起こしたときは始末に悪い。報復としての密告、密通は勿論のこと平気で仲間を売り、やがて事は大事件や大事故にも発展しかねない。徳兵衛もそんな場面をこれまで何度も見てきた。やはり生きてくうえでは大小の差はあれ「拘り」や「執着」は必要のようだ。
(今日のおまけ)
「やけを起こす」とは、自分の思い通りにならないため、自暴自棄な行いをすること。これを強めると「やけのやん八」そのうえは「雪隠の火事(ヤケクソ)」、これに腹が立つと「やけっパチ」。焼けると同義らしく物が焼ければ形も質も変ることを指しているらしい。健康にも気を遣いながら多少の「拘り」を持ちながらもお人好しを演じて徳兵衛。勤めも家庭も無難に支えてきたつもりだ。だが、今となっては心身ともに疲れも我慢も限界に近い。以前の日常が戻らないのなら、いっそ、この先、毎日やけ酒でも食らって身を焦がすのも一手かもしれない。