koushuyaの徒然日記

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

二人の道を分けたもの

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 水曜日のクラブW杯準決勝、鹿島とアトレティコ・ナシオナルの試合。シュート数を見ても圧倒的に相手チーム優勢も堅守速攻で前半を零封に抑えたのが大きかった。鹿島は開始後60分を徹底して耐える戦術、その能力も抜群。18日の決勝戦の相手は、あのジダン率いるレアル・マドリード、しかも日本での頂上戦だ。

 

 サッカーといえば山梨は甲府クラブ(前進は鶴城クラブ、後にヴァンフォーレ甲府)に始まり、有名校といえば横森巧監督が率いた県立韮崎高校の名が挙がる。何度も全国高校サッカー選手権山梨県代表として出場している。選手や監督には、かの有名な羽中田昌中田英寿らを輩出し、ノーベル医学・生理学賞の大村智特別栄誉教授は勿論のこと、日教組のドンこと輿石東も同校出身と記憶している。

 

 さて、中田は日本代表にもなって、今はご存知のとおりのご活躍ぶりだが、現役当時はサッカーに対する姿勢、哲学やパッションが他の選手と全く違って見えた。中田のイメージが今の本田と重なって見えるのは徳兵衛だけか?羽中田昌も高校時代には3年連続で国立のピッチに立っている。

 

 彼もプロ選手を夢見ていたが、自らのバイク事故により脊椎損傷、半身不随の身となった。そのハンディを乗り越え、公務員を辞めて単身欧州へ渡ったが車いすというだけでスクールにも入れず一時は指導者を断念したかに見えた。その後、障害者として初めてS級指導者ライセンスを取得。サッカー監督としても活躍した。

 

 記憶に残る名場面、昭和58年1月8日、決勝の清水東(静岡:2年生長谷川健太)戦。小雨が降る寒空の下、0-3で迎えた後半15分、韮崎は羽中田を投入。大歓声が起こった。約40メートルをドリブルで駆け抜ける。彼は高校2年の終わりに急性腎炎で病床に伏し、9カ月間もサッカーができず体は完治しないまま、医師から「プレイは20分以内」と制限されていた。これが選手としては最後のピッチとなった。そのことを鮮明に覚えているのもそのはず、当日早朝に山梨からバス数十台を連ねて韮高応援団が国立競技場に向かった。スタンドの一角を陣取った応援団の中に、徳兵衛の亡き父の姿があったからだ。

 

 腎臓病を患い交通事故を起こし、そして障害者となった羽中田。その後に彼がサッカーに関われたのも、あの高校時代と襲った悲運が彼を立ち直らせたのに違いない。ド派手なブランドファッションにサングラス、インタビュアーに向かって「サッカーは個人技による個と個の戦い」などと、中田や本田のようなことを彼は決して言わない。

 

(今日のおまけ)

 県内では高校サッカーは韮崎高校、ラクビ―なら県立日川高校、野球で甲子園出場校といえば市立甲府商業、県立甲府工業、吉田、吉田商、市川、身延、塩山商、機山工、甲府一高(出場2回も初戦敗退)等々と公立優位だった。今や私立にその席を奪われ、東海大甲府日本航空、山梨学院付属高校と続く、選手はほとんどが県内中学出身者以外の外人部隊のため応援にも熱が入らない。そんな徳兵衛、県内史上初のスクールバス運行した山梨学院大学付属幼稚園(園長は確か創設者のヒゲの古屋真一学院長)の卒園生だったことは誰も知らない。