Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

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 今から60年くらい前、Gagarin(ガガーリン)が「地球は青かった!(オラの顔も蒼白)!」といって、宇宙船から地球を俯瞰したフレーズが頭から離れない。その後、ソ連のテレシコオワなるおバチャン飛行士が史上初めて宇宙に行った。

 

 その後、米国のアームストロング船長がアポロ計画の下、人類史上初の月面着陸を敢行し、その様子を携帯ラジオで聴きながら、南アルプス間ノ岳」の天泊で、その実況中継を聞き入っていた当方。天空に浮かぶ月を眺めながら、こんなことがあるのだと、仰天していたことを思い出す。

 

 さらに、その後中国の有人宇宙実験もあって、米中露の宇宙合戦が続くアナログのようなコスモ戦争が続いている。未だ、欧州はもとより韓国、カナダ、豪州など環太平洋の諸国で有人宇宙実験をした国はない。

 

 「月だ!」、「火星だ!」、「君は太陽だ!」と云っている諸君!忘れてはいませんか?たった宇宙のゴミ屑のような「イトカワ」という小惑星に、国産の「ハヤブサ」が降り立ちサンプル採取し日本に持ち帰る。覇権を争う米中露が力を競う中で、デジタル技術を駆使し流鏑馬で針の穴を射るようなわが国のこの技術水準。スバラシイではアリマセンカ?

 

 力で押し通せ、ひん曲がった世界情勢に、精密で、ち密で、その上なお正確で、そんな小さな狭い目的にその目標を見事に果たす。これぞニッポンの国力。アナログでもなく、地道に研鑽し、力を積み上げ、結果を得るこの姿こそ技術立国、日本国民族の誇りだ(筋不明の観光客を誘致するなど「観光立国」などアルゼンチンだ)。

 

 他国に比べわが国の国力や武力は劣るかもしれないが、そんなお国だからこそ、そこに知恵が産まれ、工夫が産まれるのだ。妙な言い方だが、この技術は防衛力の高度化にもつながり、少子高齢化にあってもわが国の安全保障の礎になることは間違いない。

 

 でも、そんなデジタル世界とは反対に、現実の目の前の世界は高齢者ドライバーや引きこもりの事件、事故などアナログ的犯罪が後を絶たない。こうしたコントラストを否が応でも見せつけられる我ら庶(国)民に「何を感ぜよ!」とお国は云いたいのだろうか?

 

 この国の未来、地域や家族の将来に一抹の不安を感じるのは当方だけなのか?「イトカワ」に向かい、次なるミッションを終えて帰還する「ハヤブサ(8823)Ⅱ」にその答えを求めるのは、所詮、無理な話なのか?

「おくやみ」を考える。

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 その昔は、これほど会葬所がなく葬儀の殆どが自宅葬だった。葬儀に金がかかることから、ご近所の協力があって、親戚から小麦や米代と称する金品も届けられたものだ。

 

 火葬も普及していなかった頃は、土葬が殆どであった。だから当時は、隣組の男衆が輪番で、葬式の陰で遺体が十文字になるように墓を掘った。先代の仏さんが数十年も前なら良いのだが、亡くなってから間がないと墓穴の掘削は死臭との闘いだ。「ばっさんが、出て来たぜ!臭くて、たまんっねえっ!」なんていうボヤキもよく聞いた。

 

   それに、通夜の夜中などは、親戚中が帰ったあとも一晩中線香を絶やさぬよう見守った。さらに、腐敗が進まないよう仏さんの脇下や股間に置かれた氷やドライアイスの交換は、専ら一番若い娘婿のお仕事だった。当方もそんな役割を何度も経験させられた。

 

 仏さんの納棺は、会葬者全員が粗末な古着を着て腰を荒縄で縦結び、その荒縄を使って棺を土に埋める。仏さんの着物は左前、わらじは逆さに履かせて旅支度の様相で野辺に葬る。現実には起きないこと、あってはならない、起きてはならない「死」が訪れたこと、だから全てを「逆さ」にするのだ。

 

 葬儀の格式や規模は、隣組や地域との付き合いや結束の証でもあった。弔問客の受付はもとより、隣家は自宅を休憩所や食事処として開放し、炊き出しや精進料理を振舞ったものだ。それがコミュニテーであり、地域の役割、使命だった。良いのか悪いのか、今やそれもなくセレモホールで淡々とスケジュール通りに葬儀が進められている。

 

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 その一方で、「お亡くなり」は、遠方の方でも新聞紙上等の「お悔やみ欄」で知ることになる。その昔は「死因」まで記載していたが、個人情報の問題なのか何時からか紙面から消えた。でも、故人の享年、喪主、職業や勤務先などを見ていると、なんでこんな若さでと、事故か病気を推測したりもする。

 

 それに比べ80、90に100歳も超えての往生となると、故人の無難で穏やかな人生を想像する。喪主が奥方であれば羨ましくも思い、ご長男や次男が名を連ねると兄弟の仲の良さ、親戚付き合いや家族構成までもが手に取るように推し量れる。

 

 たった数行のお悔やみ欄ながら、そこに人生の縮図があり、その故人の生きざまが垣間見えてくる。父母の葬儀の際に会葬いただいた方々や知り合いに不義理があってはいけないと、毎月ご利用料をお支払いしながら、地元紙のDBにアクセスし毎日「お悔やみ欄」を覗いている。いつか、この欄に当方の名前も載る。その時に自らの眼でこれを見ることが出来ないのは残念、無念。

男のコダワリ!

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 昔からオスは何故かしら、道具、工具やアイテムに固執する。普通のリーマンならスーツ、ネクタイやベルトといったところだが、それには全く興味がなかったのが当方のホンネ。つまり、それ以上に財布や腕時計などのちょっとした小物にステータスを感じるのだ。

 

 田舎に行けば、ブル、バックホー、ショベカーやユニックなど、ことのほか重機を愛好するお方もいらっしゃるようだが、都会ではそれは叶わない。でも、少なくとも当方も六角ペンチ、プライヤー、糸鋸やスパナなどの道具愛好家が好むような小道具は、いつでも物置から取り出せるようになっている。

 

 今日、ここにご紹介する当方のアイテムにはそれぞれに想いや思い出があって、なかなか「断捨離」出来ない。この小道具の一つひとつに、由緒、謂れを語れと云えば、到底本日一篇のブログだけではご紹介できない。少なくともここにあるだけで「十篇舎一句!」

 

 財布はロンシャンに始まり、キタムラにハッシュパピー。腕時計と云えば、アニエス・べー、それにGショックにフェンデイ。でも、やはり男らしくこうした類は精密性と専用性を重んじるから、アウトドアには、プロトレックやガーミンを愛用している。趣味や仕事もそうだが、ここにこうした「男のコダワリ」と「主張」が現れるのだ。

 

 使い古した道具やツールをわが子のように大切にし、不具合や動かなくなると金を掛けてでも直そうとし、それが叶った(直った)喜びなど、誰も判るはずもあるまい。男のコダワリとはそんなチンケの話のようだが、そこにこそオトコの「ロマン」があるのだ。

 

 捨てるモノは何であろうと、一度決心したモノは「捨てる!」。残して置きたいモノは何が何でも「残す!」のだ。でも、イザ、捨てるとなると、そのモノの思いが蘇り、また、いつか又使えるでは?あの頃に戻れるのではないかと思ってしまうような錯覚にも陥る。

 

 こんな状況になっても、使わなくなっても、使えられなくても大切にしていることがある。それは、ここにある腕時計たちだ。ある日、この時計の秒針が動かなくなった時に当方のすべての過去と、経験や命が消えそうで、常に動くことを気にしながら使わなくてもマメに電池交換だけはしている。

 

 こんなアイテムのお話をすべてれば、いくらでも想い出のモノは物置からでてくるのだが・・ところで、「なんで、今日掲載のフォトには『お清め』がこんなに写っているの?」と訝る方も多と思うだろう。「だしょっ!」そこはそれ当方のこと、最近、弔事が多くて、香典返しに沢山ついてくるのよね~。

 

 「そんな年になったのか?」と、終末を感ずるのであります。夏やスポーツ・登山時に脱水状態に陥り全身が痙攣した時は、このひと舐めが命を救う。「そのことを、あーた!ナメタラ、アカンゼよ!!最後に助けてくれるのは『お清め』の塩に、わが家の『置き嫁』のしょっぱさだ!」

ヤバっ!倒れマスタ?

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 お見舞いに頂戴した「ラン」のお花。室内で丁寧に育てた結果、ついこの間まで花弁は落ちず、随分と長く持ってくれた。でも、ハラ、ハラと花びらが落ちだすと、一日に一輪二輪と、まるで寒椿の花のように落花する。ついに、最期だけは外にと、ベランダに出したが落花は止まらず、いよいよ残りは数輪となってしまった。

 

 ランは白くても縁起、お見舞いや慶事にはうってつけだが、白菊とか白百合を贈られてもあまり気分は良くないものだ。尤も、最近は入院お見舞で、お花の持参は「感染症」の虞があることから、病室はもとより病院への持込も禁止されている。でも御見舞金はいくら戴いてもオッケイだ!!

 

 再び体重が50㎏を切る寸前だ。食欲があっても食事が喉を通らず、大腿部の血管も浮き始めハッキリと痩せたのが判る。一日1食でも摂れればいい方で、このペースだと確実にこの一週間で40㎏台後半まで落ちる。まあ、どこの世界も同じだが、ある日突然にして首を切られ、切腹しなければならないこともあるのだから、これも天命、仕方あるまい。

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 いつものように早朝のラジオを聴いていたら、昆虫考古学者が言っていた。「縄文人は、稲作が伝わる前には栗を主食に、大豆、木の実などを食し現代人以上にヘルシーな生活を送っていた」という。それが判ったのは土器などから栗の皮と一緒に「コクゾウ虫」の死骸が見つかり栗を主食していたことが判明したそうだ。しかも、このコクゾウ虫の体形が西日本に比べて東日本の方が1.2~1.5倍もあって、東日本に栗が豊富だったことも判るそうだ。

 

 そのうえ、貝塚や古墳から埋葬された人骨と一緒にハエの蛹も発見されるという。人が亡くなる何処からともなく死臭を嗅ぎ分け、10日ほどで、まず黒ハエが遺体に卵を産みに来るそうで、その後次々に違う種類のハエが卵を産みにやって来る。そして遺体に産み付けられたウジやサナギの種類と羽化するまでの期間推定で故人の埋葬時期も判るという。

 

 この話を聴きながら小野小町の「九相図」を思い出した。どんな美人でも死後直後から腐敗が始まり、やがて烏や野鳥に啄まれ、最後は骨だけとなり土に帰る。 

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 人間が食べることが出来なくなり、排せつも思うようにならず、自分の脚で歩けなくなって寝たきりになった時、体力や気力は次第に萎え、死を待つことになる。でも、今の当方、そんなに簡単には逝けないのだ。なぜなら、愛好物だったこの「ラーメン」をもう一度頂くまでは、死んでも死にきれない。

 

 散歩から戻り、ふと、気が付くと「ラン」の近くに珍しく山鳩が降り立ち「オー、フォー、フォー!」と、部屋にいる当方をじっと眺めながら鳴いてくれた。

レジリエンス

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    この言葉をご存じだろうか?先日、家内から「TV録画していたので、ご覧あそばせ!」といわれていたが、しばらく放っておいた。この「レジリエンス」は言葉の響きから、反発力とか回復力、もっといえば逆境から這い上がるような意味だとすぐに分かった。さらに病院内でも最近「レジリエンス外来」なる受診窓口を見たことがある。だから、病気からの立ち直り方のことだろうと・・、その一言に余計なお節介だ!とも思った。

 

    病気になってからというもの、自分自身ではそれほど落ち込んではいないのに、どうやらそれを、直接当方に云うのが憚れるので、気遣いして録画をして観て貰いたいようだ。それよりショックだったのは先月元常務Hさん急逝の訃報がご子息から届き、異国のバンコクに埋葬されるらしい。淋しいお別れとなったが次は当方の番かと急に不安になった。

 

   でも、家内の折角のご親切に録画は観ました。やはり「末期がん」患者の心が大混乱に陥った時に、その苦難を乗り越える力を精神科医がサポートする内容だった。患者に過去を振り返らせ自身の弱み、喪失物やコダワリを気づかせ、過去に拘泥させずに前を向かせようとする一種の心療治療だ。番組ではこれとは別に、東日本大震災で全てを失った飯館村の自然農法一家の三重県内での再起も採り上げていた。

 

    この番組を視て率直な感想を言えば、そうした環境にあっても「女性の方が男性に比べて抵抗力、快復力があって立ち直りが早そうであること」、その分「女性は暗示や心理誘導に弱く、どちらかというと、よく言えば『素直だ』ということ」、だから、逆に言えば「一旦女の子が思春期に非行に走って、引き籠ったら、男性以上に厄介になりそうだ」ということも容易に判った。

 

   でも、結局は男女に限らず「振り返り、過去や経験に拘る人ほど苦境に陥った時に、前が向けない、見ることが出来ないということ」が弱みなのだ。だから、執拗に「それまでの人生を失うことが恐ろしく、幸福感のある想い出にしがみついてしまう」、つまり「良くも悪くも過去が捨てられない」のだ。

 

   ここで、ちょっと話はズレますが、似たようなお話をしましょう。患者や障害者は画一的な環境の中で病気になって、障害を負ったのではなく、個別の事情や経緯があってその立場に置かれている。障害)や)を社会的な弱者として取り扱う風潮が目に憑くが、こうした人ほど「障害」「病気」そのものを理解しようとしない。

 

   こんな話がある。全盲の人が玄関先で靴を履くとき「まず左足を伸ばし靴の左右を確認してから右靴を履く」、でもそれを傍で健常者がみて「右の靴に左足を入れようとすると、慌てて『それは違いますよ!』指摘する」。そうした声掛けは親切でも優しさでもなく、障害者にとっては非常に屈辱的で尊厳をキズつけられるという。何故なら、脱いだ時の靴の左右の位置を足先で確認しているから、履き違いが瞬時に判るのだという。

 

   こうした、何気ない小さな親切・余計なお節介は、相手を必要以上に傷つけてしまう。患者に対して「早く病気を治して・・」とか、全盲の方に「目が不自由でお一人で入浴できますか・・」などとは口が裂けても言ってはいけない