Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

Oyaji be ambitious!

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 「中高年よ、大志を抱け」と写真は物語っている。昨日朝の散歩で撮った自分のシルエットだ。足が長く見えるのはアングルのせいで、本物の徳兵衛の脚はそんなに長くない。それにしてもここにきて一日が長いの、長くないの・・と、愚痴の一つもこぼれるワ。やることねぇし!気持ちは落ち着かないわで、時間が過ぎるのが遅すぎる。兎に角、遅い、遅~い!

 

 向寒のこの時期、年賀状の印刷、炬燵や暖房器具のセッテイングとやることは多いのだが、日常生活のテンポというかリズムというか、とにかく生活導線が悪い、悪すぎる。来るべき現実を前に、聖人君主じゃあるまいし、そんなに泰然自若、虚心坦懐などと気取ってみたところで、所詮、当方は気だけが焦る小鰯じゃ!まな板の上のコイじゃあるまいし、メダカはまな板の上で息苦しく飛び跳ねるだけっじゃ!(そこの旦那、冷静に、冷静に!)

 

   そんな焦った目覚めの悪さを少しでも抑えようとして、撮ったのがこの写真というわけ。時間は未来に向かってしか流れない。でも腹の立つことばかりだ。我が国の立法府(国会)はガキの使いのような審議で空転続き、世界は暗殺、暗躍、中米からのキャラバン移民だと大騒ぎしているのに、巷間は、日産、おっさん、困ったさんばかりだ。

 

 

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   加えて、「桜田祭り」に「片山祭り」と、国会は自民党二階派のこの二人、五輪、地方創生大臣二人を生贄として内閣に差し出した。この二人、元々大した人物ではなく、単なる捨て石(駒)。片山さつきの大蔵時代の風評を聞けば「口は立つが、小石を窓に投げるくらいの力量でエリート気取りをしていたが扱いにくかった」とは元上司の弁!また、桜田義孝は、厚生労働委員会の委員長を務めていたころ強行採決でもみくちゃにされた様子をみて、千葉東葛の地元住民からは「所詮、地場の県議止まりの御仁、国会議員に大臣とは流石に荷が重すぎる」と忌憚のないお言葉。それが二人とも今や看板、お祭り大臣とは・・。

 

    コチトラが、こんな目に遭っているというのに、バカな国会議員をみているとコイツラには、「大志」どころか、国民に対する「忠義」「誠実」「忠誠」など微塵も感じない。こんな連中を庶民の血税で雇い、ろくな仕事もしないまま蔓延らせていいものか?

 

 与党も与党だが、野党も野党だ。立民、共産も「徴用工」問題に対する党の公式コメントさえ発表されていない。与党に、訳アリ商品の大臣がいても、消去法でいけば、野党だってどれもこれも「帯に短し、襷に短し!」で全く使いモノにならない。となると現政権にとっては願ったり叶ったりだ。10%への消費増税が結局は5%減税になるなど安倍政権はしばし安泰だ。どうも、こうも今日は脈絡のないブログとなってしまった。

 

(今日のおまけ)

 また、また、ながーい夜がやって参りました。入院まであと1週間。早速、各方面から術日、病棟や病室のご照会が相次いでおりますが、入院当日にならないと決まりませんので悪しからずご容赦ください。お気持ちは有難くうれしいのですが、当方自身にとっては、どこかの大臣祭りのように浮いた気分には、いまひとつなれませぬようで・・・。 

望月(※写真は23日の京都新聞記事から)

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    2018年11月22日(金)の日付が変わる深夜、藤原道長が「この世をば我(わ)が世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば」と一句を詠んだ。そして、この日は平安時代から数えて千年後の満月だった。その月をとある神社の瓦葺きの屋根の上に見た。引いた御御籤は吉兆の「吉」、そしてこの年、当方も人生の曲がり角を迎える。

 

   この句の意味は、「この世は私の天下だ、この満月のように権力に欠けたところが一つもない」と言われている。その藤原時代も1156年保元の乱で終焉を迎えることになる。どんなに全能感があっても終わりは空しく悲しい。その日に相前後して珍しいアーク(逆さ虹)の写真が知人から送られてきた。一説にはどんぶり鉢のように幸せを受一杯受けることができる「吉兆」ともいわれている。当方の身を案じた粋な計らいだと感謝した。と、勝手に自己解釈。

 

    ただ、この虹、指を差したらせっかくの吉兆が凶転となるとの言い伝えがある。一般的に指をさすことは相手に対しては無(非)礼なことであって、何かにつけて親指を隠せと親から言われたことを思い出す。

 

   葬儀や霊きゅう車をみたら、親指を隠せ、そうしないと指が腐ると教えられた。つまり親指を隠そうとすると、手を握ることとなり自然と指がさせなくなる。なるほど合理的な理論展開だ。こういう教え方や躾をしていれば子供も素直に育つような気がする。

 

    ところで、相変わらず寝つきが悪く、夢をしょっちゅうよく見る。どちらかというと追われるような、困り果てたりするような、汗をかくような夢ばかりだ。そういうときは親指(蛇の頭)を噛むと安心して眠れるそうだ。よし、今晩から一つやってみるか!知人からの一枚の写真が、快眠のヒントを与えてくれた。

 

(今日のおまけ)

    購読している朝日新聞の朝刊に「患者を生きる」(サブタイトル:食べる)という記事がシリーズで掲載されている。記事はこれまで都合五回となる。第一回目は、食事中突然の胸のつかえから始まって「がん」であることが分かり、それが転移して、その後放射線治療の苦しみに耐え、それでも彼女は長男の成長を糧にそれを愉しみに今も闘病生活を続けている。

 

   そしてその長男は、いま横浜市内の病院での医師として採用が決まり、病院勤めをしながら母親の看病をしている。このお母さんの病名は「食道がん」、当方と同じ病気だ。奇しくもこの時期にこのタイミングでこの記事を目にするとは、何か不思議な縁を感じる。

昨日に続き、今宵今晩はこの歌で・・

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死んでもあなたと 暮らしていたいと

今日までつとめた この私だけど

二人で育てた 小鳥をにがし

二人で書いたこの絵 燃やしましょう

何が悪いのか 今もわからない

だれのせいなのか 今もわからない

涙で綴りかけた お別れの手紙  

 

  この曲、お分かりですよね。そう、昨日のテーマ、由紀さおりが唄う「手紙」ダス!作詞は勿論、巨匠:なかにし礼、作曲:川口真です。

  うーん・・この歌には「けじめ」というか強い「覚悟」を感じるんですな!

 

  一番の各小節の頭の詞だけでも「死んでも」「今日まで」「二人で育て」「二人で書いた」「何が悪いのか」「誰のせいなのか」ときて「泪で綴りかけた・・」と結局は、別れが云えない無念と切なさが滲み出ている。と、きて、

 

  二番では「できるものならば」「もう一度生まれてやり直したい」とくる。ここに後悔、弱さや儚さを感じるんですよね。

 

 みんなそうなんです!!  場面が違ってもこうした気持ちは男女の関係に限らず、人生のあらゆるシーンで起こるんですよね。若き頃の過ち、家庭生活、社会生活等と「何が悪いのか」「誰のせいなのか」「できるものならば」「もう一度生まれてやり直したい」は、いずれにも共通する。

 

 でも、こういう時は、グダグダ迷わず、「二人でお酒を」だすな!そんな潔さも人が生きていくには必要だ。

    つまりーっ! うらみっこなしで 別れましょうね さらりと水に すべて流して・・  

    この楽曲、作詩は、モチロン山上路夫、作曲は、巨匠:平尾昌晃、これをJUJUにでも唄わせれば最高だ。

 

 でも、退院しても「胃ろう」を点滴しながらのカラオケでは気分も日光手前の今市だろうな!そんな時は、行きつけのスナックのママに頼んで、点滴袋にちょっとだけお屠蘇代わりに「吉四六」を垂らしてもらおっと・・!

 

(今日のおまけ)

 お陀仏なら仕方もないが、一番厄介なのが麻酔から醒めないこと。渡辺淳一の小説「麻酔」にはそのことが詳しく描かれている。向学のためにご興味ある方は是非ご一読してみてください。ね!

今日は何の日

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    昨日は11月22日でいい夫婦の日。これを狙って一昨日、故朝丘雪路と故津川雅彦の「お別れ会」が執り行われた。さて、今日は11月23日、身勝手ながら「いい文の日」と命名させていただいた。つまり心温まる手紙や遠く離れた両親にあてた手紙や恋文のことを「いい文」と定義させていただいた。

 

     当方、昔から手紙や日記を書くのは嫌いではない方だが、こうした書き物のほか写真やアルバムもあまり多く残っていない。ある日、当方にとっては、かけがえのない「いい文」だった手紙を家内が自分の分と一緒にまとめて捨てた。「これらが記録、記念だからといって後々、歴史考証としてでも後世や残った者に役立てばいいが、そうでなければ単なる備忘録の類や自己満足だけの世界。残された遺族にとってもその価値に悩み、遺品としての処分に頭を抱える。」との理由からだった。


    信州の片田舎に育った女性としては、捌けていて物事に固執しないのがいいのか悪いのか?彼女と一緒になって良かったのか悪かったのか、その答えは今も出ていない。

 

    ただ、最近、こうも電子メール、SNS、LINE等が発達して便利になると、肉筆の手紙やお便りをいただくことはほとんどない。先日の広島から届けられた手紙は内容もさることながら見事な肉筆で綴られてきた。「一通の手紙」「一葉のハガキ」にかかれた文字に温もりを感じる。この文、家内に見つからないように、こっそり自分のワードローブに仕舞い込んだ。

 

    子供達には幼い頃から、字を繰り返し、繰り返し字を書かせ、子供達全員を中学生になるまで書道教室に通わせ、全員が書道の有段者となった。これも家内の子供達に対する教育方針で「文字を一つひとつ丁寧に書くことにより、根気と正しい姿勢が養われる」と。その後、子供達は剣道の道に進み有段者となってそれぞれの道を歩んだ。何より、こうしたことを続けさせて役にたったのは、「字の上手さ」はその人を賢く見せ、「姿勢の良さ」は礼儀正しい人間と周囲が勝手に判断してくれたのが有り難い。

 

(今日のおまけ)
    肉類の食べ過ぎなどの偏食、喫煙に飲酒などの嗜好品は癌の発症を促進する。特に飲酒については「酒と女は二合(号)まで」といわれるように、家ノミが気楽だと毎日3合以上も呑んだら寿命を縮めると担当医からのご託宣。

 

    そんなの判ってルー大柴!と心のなかで呟いた。でも、先生は本気度満点!術日まで禁酒しないと「術後に身体拘束しますっ!」だと。なぜなら、酒飲みは脳が飲酒しないと眠ることが出来ないように日頃から訓練づけられていて、飲酒しない入院生活では、途轍も長い夜を過ごすことができない。そのためイライラが募っての不眠から点滴やドレナジーチューブを無意識に抜きまくる患者もいるという。先生は「こうしたことがあるとネ、別料金を戴いても足りないくらいだっ!」と嘆く。

 

     それを聞かされたこの徳兵衛、先生に「わかりました!今夕戴く笹を今生最後の笹とします」と。先生「!・・?・×・△?」と呆れ顔(実際、命に関わる危険があるらしい)。

喉元過ぎれば

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 時が過ぎると過去に遭った記憶が薄らぎ、惨事さえ歴史の中では美化や美談にされてしまう。引きずりたくない、早く浄化したい、区切りをつけたいと思っていることが人の記憶や心をそうさせるのだろう。例えば2011年の東日本大震災時に起きたF1の原発事故。

 

 外国人労働者を使っての除染が進み、あたかも地表から放射性物質が消失し福島県全域で帰還困難地域がなくなって東北地方に日常生活が戻ると錯覚する人も多い。それに最近は、メデイアもその危険性を声高に発信しなくなった。

 

 放射性物質セシウム137の半減期は30年にもなる。そしてそのセシウム137は何処に行ったのか?「除染」とは放射性物質をどこかに移すか土の中に埋めるか川や海に流すことだ。だから「除染」しても、放射性物質は場所が移動したたけで、その影響が全くなくなったわけではない。森、林、山に降り注いだ放射性物質は雨とともに川に流されその一部は湖沼に沈殿し、またその一部は海に流された。このなかで最も怖いのが、ため池、ダム、湖沼に沈殿した危険性の高濃縮濃度の放射性物質だ。ダムが決壊して汚染土が濁流となって川下に流れ出たり、湖沼底の沈殿土が巻き上げられない限り人体に影響はないもののダム湖や湖沼の水が飲料用に使われるとなると話は別だ。

 

 福島県内に野生するニホンザルを個体維持のためサンプル捕獲し、そのサルを学術解剖すると他地域のニホンザルに比べ、造血幹細胞、甲状腺や白血球数に明らかに異常があるという。また、がんを発症して亡くなるサルも多い。こうした野生サルが福島に多く見られるのは、サルが汚染した木の皮や木の実を餌として摂取しつづけた結果だという。無味無臭、着色もなければ水や空気に流れて今でも移動し続ける放射能。とかく目に見えるものしか信じないのが無頓着な凡人たち。

 

    ひしひしと危険はあなたの健康と命を蝕んでいることを改めて感じてもらいたい。なぜなら次はあなたの番かもしれない・・カラダ。

 

(今日のおまけ)

 見たものしか、見えるものしか、経験したものしか信じないあなた。また、信じる者こそ救われると思っているあなた。ダメなときは何をしても駄目だ。それでも、諦めては駄目だ! 

 

    今日の一歩が、明日の二歩目に繋がる。人の話に素直に耳を傾け、真実や現実に対しては自身の目と心を開く、すると自ずと道は拓ける、そして三日目、四日目・・と歩く距離は次第に伸びていくはずだ。ここは堪えてガンバレ!T病院に入院中のR.S君、君はまだまだ若い!!そしてこの先は、当方よりはるかに長い未来が君を待っている。