Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

東南西北・壱弐参四

 トウナンシャアペイッ、イーリャンサン~スウっ。今日は麻雀のお話ではない。甲府市内を大きく分けると東西南北に分かれる。これに沿って市立(公立)中学校も北中、東中、南中に西中がある。これらの学校は歴史が古く生徒数もかなりを数えていた。

 

 高度経済成長期、児童数や生徒数の増加から北と東中の間に北東中学校、西と南中の間に南西中、北と西中学校の間に北西中など後続新設校が相次いだ。別格には山梨大学付属中学校がある。そのほか私立では山梨学院大学付属中学校や英和短期大学付属中学校がある。

 

 公立中学校の中でも当時甲府市立西中学校はマンモス校で一学年11学級から14学級を有していた。そう生徒数は凡そ1500人、この学校の学区は先日の穴切小学校をはじめ、春日、池田、貢川の専業農家出身の生徒が多かった。

 

 ここで甲府市を概観すると、東西を走るJR中央本線を挟んで南と北に分かれる。中央線より北側をおっぼこい山の手族、線路より南側を下町いわゆるダウンタウン、餓鬼集団と色分けしていた。

 

 甲府市は東西に長細く北は昇仙峡の奥座敷金峰山の麓から南は荒川と笛吹川が合流する地点までが市の管轄で凡そ人口は19万人(県の人口80万人)、県内のサル100万匹、シカ60万頭、イノシシ20万頭、熊1千頭を含めると立派な政令指定都市になる。「山梨県人」を「甲州の山ザル」と侮蔑されるが、ここらあたりに由来しているのかもしれない。

 

 近年、甲府市外や都心への流出が多く加速度的に市の人口は減少気味。その昔は「かふふく」と呼ばれ「幸福が来る」との言い伝えもあり、県庁所在地が山梨市でないことも全国的に見ても珍しいことらしいとのこと。

 

 だいぶ話が横道に逸れたが、何せ当時中央線の南側に位置する東、西、南、南西中学校は生徒の殆どが丸刈り、北側の北、北東、北西、梨大付属中学校は長髪と、風俗、風習、文化や民度の違いがはっきりしていた。まあ、南側は粗削りでワルが多く歓楽街もこちら側にしかなかった。これぞまさに山梨の南北問題。敢えて言えば東は「裕ちゃん掘」など低地で沼地が多くよく水害に晒された地域だ。ここまでいうと東西問題にまで発展してしまうので・・・。

 

 さて、紙幅が限られてきたので結びとしよう。さてこの徳兵衛、出身校はかのバカでかい西中学校のご卒業。規律違反をすると職員室の隣の生活指導室に連行されて、丸刈りをさらに短く刃が錆びた手バリカンで痛い思いをしながら五厘刈りにされたことを思い出す。

   

    登下校は通学路はなんおその飯田グラウンドと中学校の境のバラセンを越えての至近通学、思えば拙者も「ワルだったよのう!」。時宜を改め次回は高校篇をお楽しみに。

 

  暫し、お休みがてらココロの洗濯にて明日から帰甲スっ!!(休載)。

「花は~花は咲く」がいずれ散る

 東日本大震災の時に西田敏行らを中心に盛んに歌われた「花は咲く」、でもこの咲いた桜はいずれは散る。百田尚樹の「永遠の零」ではないが特攻隊員らが交わした言葉に「散る桜 残る桜も 散る桜」がある。これは究極の死生観を表した句かもしれない。

 

 冷淡なようだが地震や風水害が起きるたびに荒野となった被災地を見、人のココロに寄り添うような励まし、支援や応援でも、栄華、隆盛や咲き誇った桜の花のような「良き時」もいずれは衰退し滅び、「散る」のだ。

 

 このフレーズ、実は禅語から来ていて、良寛和尚の辞世の句と言われている。

 つまり、今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命に変わりはないということ。桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負う。

 

 人の一生も亦同じ。人は生まれた時点で必ず死ぬことが決まっていて、生まれたから、死ぬのことが宿命なのである。

 

 癌患者や重篤患者もそうだが死に至る病を患い、余命を宣告されるのは、死を眼前に突きつけられることも同じだ。人に余命というものがあれば、人は生まれた時点で「寿命」というこの「余命」を宣告されて生きている。いつ旅立つのか1年先が不幸で、10年後の死は幸福かといえば、そんなわけはない。

 

 「ガンを患うことがなければ、生きることの尊さも、命の尊さも知らずに人生を終えていたかもしれない。命というものに意識を向けることなく死んでいたかもしれない。

だから今では、むしろ人生の最後にガンを患ったことを有り難いことだとさえ思っている」と述懐する人もいる。

 

 そうした意味では人は生まれながらにして致死率100%の寿命を背負わされている。病に冒されたから死ぬのではなく、生きているからこそ死ぬのである。

 

 良寛和尚の残した辞世の句は、哀れで、儚い。人間は死から逃れることはできないという諦観のようにも聞こえたり、命を諦めた言葉のようにも受け取れる。

 

 禅においては「諦める」という言葉は、物事の真実を明らかにするという意味の「明らめる」という意味で用いられているようだ。

 

 さてさて、拙者まだまだこの境地に達せず、日々煩悩に苛まされている。今、改めて

「散る桜 残る桜も 散る桜」を噛みしめている。が、お言葉ですが「桜は散ったところで毎年春に咲くが人の一生は散ってしまえば二度と咲かない」ことの真理は如何に。

仁王、西方浄土にて死ス

 タイトルは流行りの「死にゲー(ム)」に真似たものではなく、本日2024年04月09日に掛けた自作のこじつけです。いかがでしょうか。一昨晩、直腸の原発がん(後に肺と肝臓にに遠隔転移)から命を落とした音楽家坂本龍一の犬HKスペシャル「LAST DAYS/坂本龍一の最期の日々」を視聴した。

 

 どうも此のところこの手の番組に惹かれ、ネガテイブな言葉が盛んに頭を過る。いつかその日が来ることは解ってはいるものの・・・

 

 このドキュメンタリー番組、再婚相手の矢野顕子や娘さんの坂本美雨などのご家族や関係者も登場、病床日記やせん妄(当方も実体験)のことなど包み隠さず公開、生前の彼の姿を赤裸々に追っている。それは生々しくもあり、ふと、まだ彼が存命のような錯覚に陥てしまう。

 

 「何もせず半年生きるか、それとも抗がん剤治療に苦しみ数年生き延びるか?」の日記の一行には彼の苦悶に満ちた闘病生活が記されている。こうした死生観、ベッドの上でピアノを弾くようなゼスチュア。

 

 抗がん剤治療に耐えやせ細った体になっても体操をし、懸命に食事を摂ろうとする姿。それを医療・治療面で支える主治医の「笠原群生」。この医師ネットで調べてみたら以下のような記述があった。

 

 1992年群馬大学医学部卒業後、同大学外科入局。 1999年京都大学移植外科助手、英国キングスカレッジホスピタル留学 、京都大学移植外科医長などを経て2005年国立成育医療研究センター病院に移植外科部長として赴任。 臓器移植センター長、特任副院長などを務め2022年4月から現職。2022/05/31

 

 支えられ、自身も各方面で身を尽くす。当方、未だその心境に極めきれず、その未熟さに反省しきり。

 

 あれほど、人は衰弱しないと旅立てない。でも、有名人が故に病院では「特別個室」をあてがわれ、ニューヨークや京都の自宅とは別に病院に近いところに都内に「別宅」を持つことができている。

 

 一般人すべてがこういった手厚いお世話が受けれるとは限らない。自身が「いつ」「どこで」「どのように」最期を迎えるのか、今は遠い未来のようだと思いたい。これ(人の生き死)については、改めて本ブログにおいて現在の心境を吐露したい。

ブッタお誕生おめでとうスっ!


 タイトルが長いので、失礼ながら「ブタ・オメ」ということにさせていただく。

本日4月8日はお釈迦様の誕生日。灌仏会(かんぶつかい)といって花まつり当日とし

てこの日は自分や家族の無病息災を願いつつ、甘茶を3回お釈迦様にかけるのが習わし

だ。

 

 お釈迦様が生まれた姿でお立ちになっている台を花御堂(はなみどう)と言いうが、その上に飾っているお花は全て本物。檀家さんや住職が、1つ1つ丁寧に付けられたものとされているのだが、当家の菩提寺でもそんなことをしていることを今まで見たことも聞いたこともない。なんとバチあたりの檀家や住職なのか・・・(コレ本音)。

 

 説によれば、甘茶をかけられるお釈迦様の姿は、生まれた際に七歩を進み、天と地を指して「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと言われるお姿が再現されているとのこと。

 

 この「天上天下唯我独尊」とは、自分が一番偉いという意味ではなく、かけがえなのない生命の存在、誰しもがオンリーワンの存在と主張しつつも、お花と同じように懸命に咲くことを諭されているとのことだ。信心深くない当方でも一応頭に入れておく。

 

 今日はお誕生日にに関連して「お釈迦になる」を横道に深堀したい。IMIDASの慣用句辞典によると、以下にこうした記載がある。

 

お釈迦になる〔お釈迦にする〕。おしゃかになる/おしゃかにする。

失敗作・不良品をつくってしまう。つくり損なう。また、(壊れたり欠陥が見つかったりして)役に立たない物になってしまう。使い物にならなくなってしまう。「せっかく新品を手に入れたのに、ちょっと落としたためにお釈迦になってパーさ」

 

〔類〕お陀仏になる

 

〔語源〕江戸時代、職人が金属を溶接するときに火が強すぎて失敗し、「火が強かった」というところを「シガツヨカッタ(4月8日だ)」としゃれたもので、この日がお釈迦様の誕生日であるところから、オシャカになったと言い換えたという。また、鋳物職人が地蔵を鋳ようとして釈迦を鋳てしまったことからともいう。

 

 とある。

 

 それでは、お時間もよろしいようで、今日は自分自身がお釈迦になる前にこの辺で・・御免!明日はあしたのココロのジョーだ!!!!

早くひと風呂浴びたいワ~っ!

 前号で甲府市内の旧銭湯名のお話を差し上げてたが、とにかく「寝たきり老人」状態なので体が自分でも分かるくらい「老臭」以上に「臭い」し「痒い」のだ。

 

 時に当方の趣味「登山」においては下山後に必ず「温泉」がセットされていることは先刻ご承知のことだと思う。

 

 とりわけ足慣らしをする庭先の高尾山は稲荷山コースから入って高尾山頂経由から富士見平、城山、景信、小仏経由で陣馬山まで足を延ばすのが当方のお決まりのコースだ。

 

 そこでいつもお世話になるのが、藤野の「陣馬の湯 旅館:陣渓園(ご主人は大木さん)だ。ひと風呂浴びた後に、冷たいビールと運が良ければ朝捕の獅子鍋なんぞがいただける。

 

 かくも山登り、下山後の風呂に至極の一杯は格別とするのが通例。したがってどこの山に登っても山行帰りには必ず温泉が噛ましてある。が。行程より呑んでいる時間の方がはるかに長く、帰宅する頃は泥酔状態なのが常。

 

 山梨にも数多くの温泉があり「信玄の隠し湯」の筆頭が「湯村温泉・源泉湯元は湯村ホテル」だ。源泉かけ流しを楽しめるがその昔これを「源泉垂れ流し」とかいって笑わしてくれた奴もいた。中には「人の噂も75日を49日といった」おバカさんもいた。

 

 甲府の古府中の古湯坊(勝頼が産湯に使った)、三富の川浦温泉(山縣館・武田24武将の一人、山縣 昌景に由来)。当時、上洛することより海(路)と塩を欲しがった武田信玄、西へ南へそして北の上杉謙信と何度も合戦を交えた川中島の合戦

 

 山梨に斯くも温泉が多いかというと、佐久甲州街道を北進、ここで北信濃に勢力をもつ天敵・村上義清と対峙。信玄公が初めて敗北を喫したという「上田原の戦い」での多くの傷兵を癒すために方々に温泉を掘った。

 

 当地山梨では下部温泉、十石温泉などなど(牧丘の「ほったらかしの湯」は口コミで広がった温泉で信玄の隠し湯でもなんでもありましぇーん)一方、長野では、別所、鹿教湯、戸倉上山田や松川(村)渓谷温泉などが有名だ。

 

 それはそれで、山登りに限らず、のんびりと温泉旅行にでもと洒落込んで行けたらよいのだが・・早くひと風呂浴びたいワ~っ!